アルティマ ブラッド 禁断のアポカリプス
ほどなくして薔薇の咲き誇る庭にひとつのシルエットが振ってきた。
シルエットがよろりとこちらに向かってくるのをガラス窓越しに認めたカミーユは、静かにタイマーへと視線を落とした。
「二分五十八秒……か」
「ぎりぎりセーフだ……」
ジョセフィは苦笑しながら窓を開いた。
「ひでーよ。三分以内って……。オレがどこにいたと思ってんだよ」
はあはあと息を喘がせながら、チェーザレは窓枠に寄り掛かった。
「どこにいるか素直に答えてれば、こんな真似はしなかったけどな」
カミーユは冷淡に皮肉った。
「もう……、南の薔薇園だぞ。はあはあ……歩いたら……三十分はかかるとこだぞ。……しかもオレは……はあはあ……、飛行のスキルを持ってないんだからな」
「それでどうやってこんなに早く来られたの?」
尋ねながら少年は、いつもは軽々しいノリのチェーザレが実は類い希な身体能力の持ち主であるのに気づいた。
「跳躍だよ。枝から枝に速攻で飛び移ってさ、ここまで来たってわけ……はあはあ……」
「どうでもいいが、そのわざとらしい息切れはやめておけ。こんなところで忠実な側近を演じても無駄だ」
「……ばれたか。さすがはカミーユさまだ」
チェーザレは困り顔で降参のポーズをとった。
「おれだけじゃない。ジョセフィも呆れてるぞ」
「はい、はい。失礼いたしました……っと。それより御用向きのほどは?」
小言には慣れているようで、チェーザレはしらっと話題を変えた。
「ここにいる半人前の坊やに稽古をつけてもらおうと思ってね」
「え……?」
カミーユの目配せを辿るチェーザレが一瞬だが固まった。
「稽古って、それ……」
「せいぜい手加減してやってくれ」
「よくわかんねーけど、さしずめやんちゃなアクアを大人しくさせろってところかな?」
勘のいい青年は場の空気をさりげなく読んでみせる。
「おれが戦士になりたいって言ったら、いきなりカミーユが……」
「可哀相に。こんないたいけな少年と優しいオレさまを決闘させるだなんてさ。ドMのおっさんが今日は暴君に変身だ」
チェーザレは少年の頭を抱き寄せ、わざとらしく嘆いた。
「冗談はあとにしろ。場所は裏庭。制限時間は十分。チェーザレは素手だ。爪の使用も禁止。アクアにはブレスレットナイフの使用を認めよう。時間内にナイフの刃先がほんの〇.一ミリでもチェーザレに擦ったらアクアの勝ちだ」
「すごいハンディ……。おれ、とことん舐められてるんだな」
提示されたルールにアクアは不満げだった。
成り立てヴァンパイアの自分が勝てると思うほどうぬぼれは強くない。
しかし勝負は時の運ともいう。かすり傷なら負わせられるかもしれないという淡い期待も、僅かだが胸奥を疼かせる。
———これはチャンスだ。
アクアは自分を奮い立たせた。
「おれが勝ったら……戦士になれるって考えていいんだよね?」
「ああ。戦士候補の筆頭に据えてやるよ」
カミーユは余裕たっぷりに告げる。そうならないとわかっているからだろう。
もともとデミがいかに未熟者だとわからせるために仕組んだ勝負だ。しかし、アクアにとってこれ以上の好機はない。
少年は裏庭へ向かうほんの数分の間に、思いつく限りの作戦を立てるのだった。
カミーユが指笛を鳴らした。
その瞬間、稽古という名の対決が火蓋を切る。
「遠慮はいらねーから、マジでかかって来いよ」
特に身構えるでもなく、チェーザレは立てた指先を前後に動かした。
「もちろんだ!」
ナイフを握りしめ切り込んでいくアクアを、たやすくかわしたチェーザレは後方の高枝にバックジャンプで飛び乗った。
「くっ……」
アクアは勢い余って大樹にぶつかりそうになるが、すんでのところで幹を蹴り付け、斜め跳躍でどうにか高枝のひとつに手を掛けることができた。
懸垂で枝の上にあがると、向かい側にいるはずのチェーザレの姿がない。
「あ、あれ……?」
すると真後ろから彼の声が聞こえてきた。
「こっちこっち〜〜」
振り向くと彼は、先ほどよりも高い位置から手をひらひらと動かしてアクアを呼んだ。
「なんて素早さだ」
裏庭は奥へ進むと森のように鬱蒼と樹々が繁っている。
上空は緑が縦横に広がり重なり合って、月光さえ遮るほどだ。そうした漆黒の世界でもヴァンパイアの視覚は情景のすべてを捉えることができる。
アクアはチェーザレ目掛けて、枝から枝へ跳躍する。だが、彼はアクアが到着する直前に別の枝へと移っていった。
「もうっ! これじゃ勝負になんないよ!」
アクアは懸命にチェーザレの後ろを追い掛けていく。
その光景をふたりのロードたちは息を詰めて見守っていた。
「チェーザレで正解だったな」
最初に呟いたのはジョセフィだった。
「あいつは見かけによらず空気が読める。おれの意図も容易に察したんだろう。フレイアだとこうはいかない」
カミーユはふたりのシルエットにせわしなく視線を走らせながら口角を上げた。
「だな。……フレイアは生真面目すぎて加減をとりながらの勝負には不向きだ。かといってほかの戦士では荷が重すぎる。ルシオラはもっかのところダビデで手一杯。その点チェーザレなら、アクアの気持ちも理解してやれる。やつにはデミだった時代があるからな」
「その通り。さすがおれの相棒だ」
カミーユは親指を立て、無邪気に片目を瞑ってみせる。
「何年そばにいると思ってるんだ」
「………何百年の間違いじゃないのか?」
「確かに……」
ジョセフィは、ふいとわき起こる郷愁に双眸を細めた。
カミーユとの出会いは二五〇年以上も前に遡る。ジョセフィがとある事件絡みで自暴自棄になっているときだった。
突如現れ、宙に連れ去られて警告を促されたのだ。
———おまえの軽はずみな行動が仲間たちを危険にさらす。
そう告げた男は、なおも意味深な言葉を散らばらせ、自身の名さえ告げずにジョセフィの前から姿を消した。
あのときの衝撃と恐怖と完璧すぎる男の面差しを、ジョセフィは忘れることができなかった。
再会したのはそれから数十年後だ。最初は喧嘩ばかりしていたが、いつの間にか相手を親身に思うようになり信頼関係を培っていった。今では強い絆で結ばれている。
「………チェーザレが少しずつ速度を増しているな」
カミーユの横顔から笑みが消えた。
「いつまで追いかけっこやらせる気だよ! いい加減にしろってば!」
枝から枝へ移り、ときに地面に降り立ち大樹の間を潜り抜けてはまた高枝へ。そんな戯れ事をすでにかれこれ八分ほど続けている。
少しずつチェーザレに余裕がなくなっているようにも見受けられ、ロードたちはいつしか固唾を呑んでいた。
「じゃあ、そろそろやり合うか!」
軽く息を弾ませ、チェーザレは逃げるのをやめた。
「望むところ!」
「どっからでもかかって来いよ」
チェーザレは両腕を広げて、アクアを挑発する。
その無防備な体勢に胸の昂ぶりを感じたアクアもまた好戦的な態度をとった。
「怪我させちゃったらごめんね」
「心配ご無用! 万一おまえの一撃が擦っても、すぐに治るからヘーキさ」
彼のいつもと変わらない軽口が、勝負の最中だけにアクアの神経を逆撫でる。
全身がカッとなり、細胞の隅々にまで熱い血が奔流するのがわかった。神経が研ぎ澄まされ、風の凪さえ肌に痛い。
そんなアクアの、気が充ちてゆくのを目の当たりにしたチェーザレは刹那呆然となる。
(本文P21〜P30抜粋)