アルティマ ブラッド 秘められたカノン
通されたリビングは、外観の瀟洒な雰囲気がそのまま反映されたエレガントな作りだった。
家具はすべて淡褐色のアッシュ材を用いた年代物で統一されており、枠に彫刻が施されたふたつの窓にはいずれも天鵞絨のカーテンがきっちり引かれていた。
一番奥の壁には大きな鏡がはめ込まれ、片隅には陶器製の置き台があって小さなガラス製の宝石箱がぽつんと載っている。
見るとはなしに透明なふたの上から眺めると、いくつかのアクセサリーが無造作に納められていた。
ほどなくしてティーポットとカップをトレイに載せ、ユーリが入ってきた。
テーブルに着いたアクアは、端正な男の面差しに美しい恋人が寄り添う姿をおぼろげにイメージする。
「誰かと暮らしてるの?」
「まさか。他人と暮らすなど煩わしいだけだ」
ユーリはつまらなさそうに首を横に振った。
装飾品を眼にとめたせいか、余計なことを尋ねてしまったらしい。触れるべきではなかったと察したアクアは、すっと話題を変える。
「ところで、さっき跳ね橋を渡って来たのかって聞いたよね? あれはどういう意味?」
「まさかきみがデミとは思わなかったから、人間がこっちのエリアに来たのかと疑ってしまったんだ。あり得ないことなんだけどね」
「人間? この島のどこかに人間がいるの?」
「正確には跳ね橋が下りたときに通じる、離れ小島だ。やつらは我々の正体を知らない。だから正直焦ったよ。違うとわかってほっとした」
ユーリの意に反し、少年には不安がよぎった。
「その人たちは何故離れ小島にいるの?」
人間は襲わないと断言したジョセフィを信じているが、ヴァンパイアがあえて人との交流場を設けるというのは、捕食以外に考えられないからだ。
しかしユーリは別の方向性を示した。
「我々は“クローズ”と呼んでいるが、連中は血液提供者として小島に滞在している。生き血を金で売っているのさ」
「知らなかった……」
もしかしたらオスカーの言っていた食事というのは、このことなのではないだろうか。方法はわからないが生き血を輸血するのだとしたら、クローズもそこにいなければならず予約するのも頷ける。
「きみは成り立てのようだから、今しばらくは洗礼者の血をもらって身体に免疫を付けなければならないが、その後はみなと同様にクローズの血を摂取する。わたしが説明するまでもなく、時期が来ればジョセフィが教えてくれるだろう……」
そう語り、アンティークのカップに紅茶を注ぎ入れたユーリは、最後にローズエキスを一滴垂らしてアクアの前に差し出した。
「来客は久しい……。もう少しでもてなしの仕方を忘れてしまうところだったが、きみが来てくれた」
舞い上がる湯気と共に濃密な薔薇の芳香が漂い、その向こうに男の自嘲めいた面差しがのぞいた。
「いただきます」
少年は高まる期待に胸を躍らせる。
そっと一口すすれば、喉を滑り降りるそばから細胞が眼覚めてゆくようだ。二口目には瑞々しい刺激が全身を巡った。
「すごい……。紅茶で薄まっているはずなのにこんなにも………」
アクアは続けざまに紅茶をすすった。残らず飲み干すとカップをソーサーに戻し、そっと瞼を閉じる。
乾きを感じていた身体に、鮮烈なエナジーがみるみる浸透してゆく。
「あぁ……、気持ちがいい……」
無意識に本意が漏れる。
ユーリがじっと見つめているとも知らずアクアはひとときの間、陶酔に浸っていた。
「おかわりは?」
声を掛けられて、眼を開いたアクアは首を横に振った。
「美味しかった。ありがとう、ユーリ」
「だが、一滴じゃ足りないだろ」
「ううん。充分満足した。これ以上もらったら感動が薄れちゃうよ」
「そうか……」
ユーリはひどく愉快そうに、持ち上げたままのティーポットをテーブルに戻した。
「常習しているわたしには感動など無縁だけどな」
「だったら、しばらく止めてみれば?」
「えっ?」
「そうすればリセットされて、また味わえるよ。あの陶酔感をさ」
アクアは屈託なく笑った。
「ジョセフィが何故きみを選んだのか、わかるような気がする………」
男は少年の爽やかな笑顔を穏やかに眺めていた。
「弟に似てるらしいよ。……聞いた話だけど」
「それだけじゃあるまい。………誰にも打ち明けていないわけもあるのだろう」
まるでその理由を知っているとでも言いたげなユーリに、アクアは首を傾げた。
「そうかなあ……?」
「だが、ジョセフィで良かったな」
「うん。優しくしてくれる」
「そういう意味じゃない。ジョセフィの洗礼でヴァンパイアになったって意味だ」
「彼の血を継いでいるのはおれだけだって教えられたけど、その話かな?」
「わたしが言っているのは遺伝だ」
「遺伝?」
アクアは興味深げに耳を傾けた。
「洗礼者の能力が転生者に伝えられる現象を我々はそう呼んでいる。人間でいうところの親と子に近い」
「それって……、おれにジョセフィと同じ力が与えられたってこと?」
「むろん全部ではないがね。両者の相性や、きみが持つ潜在的適合性によってどの能力を引き継ぐかが決まる。………とはいえ、ジョセフィの血なら間違いなく最上の能力を得たも同然だろう」
理路整然とした説明だが、アクアにとってはあまりに漠然としていた。
———センザイテキ テキゴウセイってなんだろう。
「………全く実感がないんだけど」
困ったように、アクアは頭を掻いた。
「そりゃそうさ。デミはヴァンパイアとしては不完全だからな。………正ヴァンパイアになれる日を楽しみに待てばいい」
科学者はアクアの来たる佳日に向けて期待を込めた。
なんだか首の後ろあたりがくすぐったい。
ヴァンパイアとしての自分をまだ肯定できていないのに———かといって否定もしていないが———そんなどっちつかずで過ごしている少年には、男の気持ちをどう受け止めていいかわからなかった。
「あなたはどっちだったの? 純血種? それともおれと同じ転生種かな?」
「もともとはロシア人だ」
「じゃあ転生種だね。ヴァンパイアになったとき、嬉しかった?」
彼はどういう覚悟で人間としての生を捨てたのだろう。なってからはどうだったのだろう。良かったのか悪かったのか。後悔はしなかったのか。
揺れる心のままにアクアは問いかける。
「………さあ、どうだったかな……。ただこれで研究を続けていけると思った。……寿命に屈しなくてもいいのだと」
意表を突く回答にアクアは面食らった。
「研究がすべてなの?」
「………科学者にとってはな。文明の発達と共に不可能は可能になる。……想像し、仮説を立て、最新鋭の機器で検証する。研究の途中にも新たな発見はある。………未知の世界に足を踏み入れることこそが科学の醍醐味だ」
学者としてこの暮らしは性に合っている、と結ぶユーリはどことなく寂しげに見えた。
会話が途切れてしまい、次の話題を探そうとするアクアだったが、いきなり彼の白衣のポケットからベルが鳴り響いた。
「時間だ……」
ユーリは小型のタイマーを取り出し音を止めると、「実験の続きをやるから……」と素っ気なくアクアに退室を促した。
「うん。今日はどうもありがとう。話せてよかった」
薔薇のエキスと紅茶のお礼を言うと少年は速やかに玄関へと向かった。
男は見送ろうとはせず、リビングから少年の後ろ姿を眺めていた。
「気が向いたらまた来るといい。ただし、おれの虫の居所が悪ければ追い返すかもしれないが………」
背後から聞こえる憎まれ口にアクアは振り返った。
「それもまた楽しみだ」
やけに月が大きく見える。そしてひどく明るい。
頭上から差し染める月明かりの中で、アクアは薔薇の園を丹念に見回った。
幸運にも傷ついた花はなさそうである。少年はほっと胸を撫で下ろし、パレスに向かって歩き出す。
ユーリとのひとときが心を軽くしたのか、さっきまで意識を苛んでいたマイナス思考もすっかり失せて自分の単純さに呆れるほどだ。
ジョセフィの気遣いが本当は嬉しいくせに、甘えすぎているのかわがままを口走る。
あとで反省して謝って………そんな過ちを何度繰り返しただろう。
彼に心配掛けてはいけないとわかっているのに、家族の話になると譲れなくなる。
今宵、前進はあるだろうか。
とことん話し合って互いが納得できる形にまとまればいいのだが。
そのためにも、どうかもう邪魔が入りませんように。
少年は月の女神に祈りを捧げた――――――――――。
(本文P63~P71抜粋)