アルカナ・ファミリア〜ラ・プリマヴェーラ〜【ミニドラマCD付き限定版】
【調査一日目】
——あの人が一体、私に何の用だろう?
フェリチータは少々訝しい気持ちを抱きながら、それでもあまり相手を待たせないように、急ぎ足で館の廊下を進んだ。
カツカツとブーツの靴音を立てて歩く細い体を包むのは、黒いスーツ。ネクタイも黒。長い赤毛をツインテールで結い上げるリボンも黒。ミニスカートから伸びるすんなりした脚の左側には、得物のナイフを止めるための太いベルトが巻かれている。
十六歳の少女としては、特異な出で立ちだろう。
フェリチータは澄んだ緑の瞳に微かな緊張感を湛えつつ、隙のない足取りで、目的の部屋まで辿り着いた。
『相談役執務室』のプレートがかかった扉を、コツコツと叩く。
「入りたまえ」
深く低い声が、扉の向こうから聞こえた。返答を受けて、フェリチータはドアを押し開け、部屋の中に足を踏み入れる。
「待っていたよ、お嬢様」
机に書棚にソファ、片隅に置かれたチェロがささやかにその存在を主張するだけのごくシンプルな部屋でフェリチータを待ち構えていたのは、黒髪の男。
彼も黒ずくめだ。シャツだけは青色だが、スーツも黒、ネクタイも黒、革手袋も黒。おまけにサングラスまでつけていて、その奥にある瞳を覗くことはできない。
おかげで表情も読み難かったが、葉巻を咥える唇の端がどこか楽しげに、もしくは皮肉げに持ち上がっているのはわかる。
「今日呼び出したのは他でもない、これだ」
男はそう言いながら、フェリチータへと、手にした書類を示して見せた。
様式に則って綴られた文書に、見出しとして書かれた文字を見て、フェリチータはハッとなる。
「顔つきが変わったね」
フェリチータの反応を予測していたかのように、おかしげな声が聞こえた。
——特別指令書。
書類には、間違いなくそう記されていた。
「では早速、特別指令を伝える」
男がフェリチータに見せつけるようにしていた書類を、自分の方へと返し、厳粛な声音で告げる。
フェリチータの背筋は自然と伸び、直立の姿勢で男の言葉を待った。
「第六のカード、リ・アマンティに命じる。『大アルカナを調査せよ』」
告げられた言葉に、フェリチータは形のいい眉を微かにしかめた。
「——と、いうことだ。意味はわかるかな」
指令を告げた時の声音よりはいくらかくだけた口調に戻り、男がどことはなしにからかうような調子でフェリチータに問う。
彼が相手をからかうような態度で話すのは、何もフェリチータを前にした時だけではない。大抵において、彼は人を食ったような態度で他人と接する。
「大アルカナを持つ者について調べろ、ってこと」
フェリチータは微かな困惑を滲ませながら、ほぼ復唱の形で答えた。さすがにこれでは足りないかと、もう少しつけ加える。
「つまりタロッコと契約して、アルカナ能力を持つ人間についてを」
そう、と男が頷きを返す。勿体ぶった様子で言を継いだ。
「君は彼らに直接交渉し、彼らに情報を聞き出すことになる。できるかな?」
「できる」
一瞬の迷いもなく、フェリチータは即座に頷いた。
内容の如何に拘わらず、これが自分に対する指令であるならば、できないなどと口が裂けても言う気は起きない。
「ほう、自信があるようだな」
男の口許が、さらに歪む。愉快そうな表情になった。
「この私を調査できるとは、君も幸運だ。さて、では質問を受け付けよう」
促され、フェリチータはすぐに必要と思われることを頭の中でまとめた。まずは、基本の基本から。
「名前と、年齢と、持ち得たアルカナ、組織での役職を」
真剣に訊ねたつもりだったのに、男にはなぜか笑われてしまった。
「味気ないことばかりを聞く。もっと年頃の娘らしい疑問はないのかな。たとえば——恋人、とか」
意味ありげに問い返されて、フェリチータは怪訝な表情で相手を見返した。
何で? とさらに訊ねたいのを、どうにか堪える。相手の恋人の有無になんて興味がなかったが、もしかしたらこの調査では重要なのだろうか?
答えを探ろうとして相手のサングラスをじっとみつめていると、男は小さく肩を竦めて「まあいい」と投げやりに笑いながら呟いた。
「君の質問にだけ答えよう。ここではジョーリィと呼ばれている。年齢は……若く見られることしかないね」
すべての質問には答えてもらえていない気はするが、フェリチータは相手の言葉を頭の中のメモにしっかり書き留めた。名前はジョーリィ。年齢を聞かれて『若く見られる』と答える男。フェリチータの見たところ、少なくとも三十歳にはなっているような、見ようによってはそれよりも若いような、それとも若く見られるというのだからもっとずっと上のような——結局まったく確信が持てなかった。そもそもフェリチータは外見から他人の年齢を当てる能力に乏しい。
これまであまり、他人というものと接したことがなかったから。
「与えられたアルカナはラ・ルーナ、【月】。役職は君も知ってのとおり、ファミリー全員の相談役だ。君の相談も待っているよ」
フェリチータが頭の中であれこれと考えているうちにも、男、ジョーリィの返答は進んでいく。相談役。そう、フェリチータもそれは知っている。大体、名前だってとっくにわかっている。
なのに一体なぜ、一体何を調べろと、この指令は自分に告げているのか。
「つまらない話はこれくらいでいい」
そしてジョーリィは自分の与えた情報をつまらないと言い切って、一歩フェリチータの方へと近づいた。
「次は君の番だ」
「私の番?」
指令は自分に対して他の大アルカナを調査しろというものだったはずだ。だから促される意味がわからず、フェリチータがきょとんと見上げると、目の前までやってきたジョーリィが身を屈め、さらに顔を寄せてくる。
その真っ黒い、無造作に整えられた髪が、さらりとフェリチータの頬に当たる。
「私に、君のことを教えてくれないか? 私たちはもっと深く知り合うべきだ」
「……ッ」
耳許で低い声に囁かれた瞬間、フェリチータは反射的に身を翻した。
部屋の隅まで走り、サッと壁を背にして身構える。
——よくわからないが、フェリチータの中で、何かが強く警戒を促していた。
逃げた方がいい、という本能に従い行動したフェリチータの反応に、ジョーリィは笑いを押し殺す仕種で肩を揺らしている。
「そんなに慌てて逃げるなんて、可愛いねえ」
「……」
また、からかわれているようだ。
まったくこの人は、他人をからかわずに話せないのかと、フェリチータは少し呆れる心地になった。
胡散臭すぎる。
「返答がそれだけなら、他へ行く」
ジョーリィに背中を見せないように、フェリチータはじりじりとドアの方へ移動した。
「もう次の男のところに行くのか?」
その言い回しに、何だかかちんときた。『大アルカナ』の持ち主は、自分ともう一人を除けば、あとは全員男性。だから次の男のところに行くのかと言われれば、そのとおりではあるのだが。
フェリチータはジョーリィを軽く睨んでから、ノブに手をかけるとドアを開き、サッと廊下へ逃げ出した。
「やれやれ、嫌われたものだ。——では大通りのリストランテに行くといい。今なら『彼』がいる」
ドアを閉める前に、ジョーリィの声が聞こえる。
そのまま急いで退散しようと思ったのに、そう呼び掛けられて、フェリチータはついジョーリィを振り返った。
「大通りのリストランテ?」
なぜその場所を指定されるのか、フェリチータに心当たりはなかった。
「行けばわかる。さあ、急ぎなさい」
ジョーリィは多くは教えようとせず、フェリチータを追い出すように顎を動かした。
とにかく、行ってみるしかない。フェリチータは相談役執務室のドアを閉め、再び早足で廊下を進み始めた。
◇◇◇
フェリチータがアルカナ・ファミリアの一員としてこの館で暮らし始めたのは、つい最近、年が明けて一月に入ってからだ。
アルカナ・ファミリア。
領主によって統治された小さな交易島レガーロの、守護者と呼ばれる存在。
組織のトップ、パーパの下、外交、監査、調停、流通、防衛を担う五つのセリエに分かれ、レガーロ島に住む人々の平和と秩序を守るために働いている。
ファミリーに入るには、タロッコと呼ばれるカードによって選ばれ、アルカナと呼ばれる不思議な力を手に入れる必要がある。
タロッコと契約した者のうち、『大アルカナ』の力を持つのは、現在十名。フェリチータもその一人だ。
フェリチータが身に宿したアルカナは、第六のカード、リ・アマンティ【恋人たち】。そして第一○のカード、ルオータ・デラ・フォルトゥナ【運命の輪】。
組織内にいる大アルカナを持つ者、残りの九名について調べるのが、フェリチータに与えられた使命ということだ。
この特別指令を与えたパーパ・モンドも、大アルカナ【世界】を持つ。パーパの妻であるマンマ・スミレはイル・ジュディッツィオ【審判】。
——パーパはどういうつもりで、この指令を私に与えたんだろう?
ジョーリィに言われたとおりに街の大通りへ向かいながら、フェリチータは一人首を捻った。
フェリチータにとって、モンドをパーパと呼ぶ意味は、二通りある。ひとつは、組織のトップであり自分の上司であるということ。もうひとつは、血を分けた実の父親であるということ。スミレは当然、実の母親だ。
フェリチータがアルカナ・ファミリアに入ると決めた理由は、勿論モンドが組織のパーパだということが大きい。かといって、パーパの娘という立場に甘える気は一切なかった。
だから、たとえ与えられる命令がどんなに困難であろうと、苛酷であろうと、拒まずすべて受け取り、遂行する決意と覚悟を持っていた。
——なのに、調査? パーパはもう、自分の部下のことくらい、充分把握しているはずなのに。
今さら新入りの自分に大アルカナを持つ幹部たちの調査をさせる理由が、フェリチータには腑に落ちなかった。
でも、とにかく、やるしかない。
組織の命令は絶対だ。
早速ジョーリィ、【月】の調査を行うことはできた。あとは残りの八名と接触して、交渉して、情報を聞き出さなくてはいけない。
フェリチータは教えられたリストランテへと急いだ。
◇◇◇
(本文P12〜21より抜粋)