セイント・ビースト 結束〜CREATION〜
最後にユダの両眼が捉えたものは、神殿の円柱だった。
黒靄に全身を捕らわれて、渦状の中へと吸い込まれていき――ヒューヒューという風のうねりだけが耳を掠めるだけでなにも見えず、ただ闇の中をどこかへ向かって飛ばされ、最後は宙の高みから投げ落とされた。
「くっ……」
地に全身を強く打ち付けたユダは、激痛を堪えながらもあたりを見回す。ここは神殿の中なのだろうか。あたりは薄暗くひんやりとしている。どこか部屋のようだが、もしや異空間なのだろうか。
不可思議な、透明な膜に包まれているような奇妙な感覚が身体全体を覆っていて心地が悪い。力を抑え込まれているようにも感じるが、いったいここは―――――。
ゆっくりと上体を起こしかけたとき、眼の前に白いものがひらりと現れる。
それがゼウスの着衣だと気付くまではほんの一瞬だった。
「はうっ」と錫杖を振り上げる大神のシルエットを瞳の縁で捕らえた直後、天上から降りてきた複数本の鎖に両手首を絡め取られ、瞬く間にユダは宙高く引き上げられた。
「これは……」
どうにか逃れようと、ユダは手首に力を込めて鎖を引き千切ろうとする。無理だと察すれば、掌から鎖を焼き切るための熱波を放出させようと気を溜める。だが、なにも起こらない。
「無駄だ」
宙吊りとなったユダの真正面に、ゼウスは立ちはだかった。
「………っ」
「ここは闇封印の間。天使はすべての能力を封じられ、下界を蠢く人間どものように無力となる。逃れる術はない」
「そうか……」
この空間に放り込まれたときから感じていた違和感の訳を知らされ、ユダは溜めていた気をすっと解き放つ。
もとより暴れるつもりはなかった。咄嗟に働いた防衛本能が縛めから逃れるべく、無意識的に身体を動かしてしまったのだ。
「逃げずに戻ってきたことは褒めてやろう」
大神は手にした錫杖の先端を上に向け、ユダの顎を持ち上げる。
本懐を遂げられなかった無念が逆撫でられる。大神のあからさまな優越感に、ユダは矜持を打ち砕かれる思いがした。
「こうして宙に吊り下げられるためにやってきたのだからな」
くく……、と大神は嘲笑する。
煮えくりかえる怒りをぐっと腹に溜め込んで、ユダは願望を口にした。
「頼みがある……」
「ほう……」
大神は錫杖を降ろし、トン、と床をひと叩きする。途端に鎖がするすると伸びて、ユダの吊された位置がゼウスと眼線を同じくするまで下がった。
「六聖獣が揃って降臨したのは、おれがみなを威したからだ」
「なるほど。おまえが連中を焚き付けたと、そう申すのだな」
「そうだ……。だからやつらに罪はない。おれの命と引き替えに……、赦してやって欲しい」
「おまえひとりの命で、反逆者全員を赦せと!? それほどの価値がおまえにあると言うのか」
「いや……、罪がおれにしかない、と言っている。彼等は無実だ……。貴方もおれには腹を立てているのだろう? これまでいくつもの嘘をついた。軽んじてもきた。無視もし続けた。最後には布令破りだ。殺しても飽き足らないのではないか? だったら……」
「それが大神に願い出るときの口の利き方か!」
ゼウスは強固にユダを遮った。
「私も舐められたものだ………」
はっとなるユダの胸元を、大神は人差し指で撫で下ろし、ふたたび撫で上げる。
「六聖獣の束ねともあろう者が、礼節をわきまえぬとは嘆かわしい……」
ゼウスの指先が喉元に辿り着く。直に肌を触られる感触にゾクリとなりながら、ユダは謝罪を入れる。
「申し訳…、ありません。……身の程もわきまえず、暴言でした。………どうすれば彼等を助けていただけますか?」
大神と眼線を合わせた。
「それはおまえの出方次第だ。私の申し出を受け入れるかどうか……。その返答によっては考えなくもないが……」
「貴方の意に従います。だからどうか……」
「信じられぬなぁ」
「なっ……」
大神のからかうような口調に、ユダは顔を歪めた。
「たった今、申していたではないか。いくつもの嘘をついたと……。軽んじたともな。そのようなおまえの戯事など聞く耳持たぬわ」
ゼウスは巧みにユダの釈明の裏をかく。のらりくらりと的を外し、嘲笑い、逆手に取り、翻弄する。
一分の利もないユダは、ひたすら大神の嫌がらせに耐え抜くしかなかった。
「そう……だ。おれは悪者だ。だが、今は本心で話をしている。嘘は言わない」
「だから聞き届けろと? 私の命はことごとく撥ね付けながら、己の望みを叶えよと? 虫が良すぎるのではないか?」
「ならどうすれば……。おれには、この身ひとつしか差し出せるものがない……。命くらいでは軽すぎると承知もしているが……、ほかにはなにも……」
絶望という二文字が、意識を蝕んでゆく。最後までただひとつの実を結ぶこともなく朽ち果ててゆくしかないのか。ユダはぎゅっと唇を噛み締める。
「おまえにとっては命よりも重いものがあるのではないか?」
ゼウスは意味深に、ユダを睨み付けた。
「えっ……?」
「信念と矜持だ」
「このふたつを奪われたら、おまえはどうやって生きてゆく? 命はただの抜け殻でしかないのではないか?」
大神は鋭い眼光をユダに浴びせかけた。手に余る光の天使はなにに心を動かされ、途を切り開くのか。驚くほどゼウスはユダの生き様を見抜いていた。
だがしかし。ユダはきっぱりと、首を横に振る。
「………すべてを捨ててきた。残っているのは貴方に捧げる命だけだ。好きにしてくれてかまわない……」
「そうか。では、おまえの決意とやらをとくと見せてもらおう」
ゼウスが顎をしゃくると鎖が音を鳴らして引き上げられ、ユダを元の高さへと持ち上げる。
「まずは私の怒りだ。存分に受けるがいい!」
前方に翳した右掌が目眩く光った。無数の刃が迸り、ユダを目掛けて飛んでいく。
「っ……」
切っ先鋭い光の刃が、ユダの全身を切り刻む。腕を、肩を、胸を、腹を、足を。至る所を掠めた刃はくるりと折り返し、今度はユダの背後から身体を斬り付けていく。
着衣が細かく切り取られ、はらはらと空を舞い、床へと落ちた。浅い傷口からは血が滲み、深く切り裂かれたところからは血しぶきが上がる。
ゆらゆらと吊された身体が揺れ動き、鎖の巻き付いた手首へも相当の負担を掛けていた。ギシギシと、鎖が擦れ合う。
ユダはその痛みを声ひとつあげずに耐え続ける。
「なぜ、叫ばぬ。苦しいのではないのか? ならば泣き叫べ。痛みに呻け!」
だがユダは無言のままだった。
「ぬううぅ……、許せぬ」
命乞いでもさせるつもりだったのだろうか。大神は、全身を血に染めながら呻き声ひとつ立てぬユダに、さらなる憤りを触発される。
掌から刃を放ち続け、狂ったようにユダの身を切り刻んだ。
(本文p155~161より抜粋)