AMNESIA
〜一途なハート・スペードの誘惑〜
著者 | 狩田眞夜 原作・監修/オトメイト/TVアニメ「AMNESIA」製作委員会 |
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イラスト | 花邑まい |
ISBN | 978-4-86134-626-2 |
価格 | 本体価格571円+税 |
発売日 | 2013年7月31日(水)頃 |
失われた記憶を求めて彷徨うわたし
紡いだ想いが辿りつく先は————
8月1日の朝、目覚めると記憶喪失に陥っていたわたし。昨日までの出来事も自分が何者なのか、誰とどんな人間関係を築いていたのかもわからない。戸惑うわたしの前に現れた精霊・オリオンとともに失った記憶を取り戻すため、周囲の人たちから情報を得ようと行動を開始するが…。
表紙イラストはゲーム原画を担当された花邑まい先生の描き下ろし!
AMNESIA 〜一途なハート・スペードの誘惑〜
『……もしもし? 生きてる?』
奇妙な問いかけで目覚めると、見知らぬ少年が私の顔を覗き込んでいた。
『あっ、目開けた!……ああよかったあ、生きてた! ホントにびっくりしたよ……殺しちゃったんじゃないかと思った。人類殺したなんてことになったら大問題だからね。もしかするとボク、死刑になるところだったよ』
物騒な発言をして、少年は胸に手を当ててほーっと大きく息を吐いた。
『気分はどう? どこか痛んだりしない?』
そう訊かれたので首を横に振る。気分は悪くないし、どこも痛くはない。
だけど、この子は……誰なの? さっきから何を言っているんだろう……。
『とりあえず、ボクのことは認識できてるみたいで何よりだよ。……あ、えっと、ボクはオリオン。決して怪しいモノじゃないよ? キミを鈍器で殴ったんでもないし、崖から突き落としたんでもないし、自動車で轢いたわけでもないから』
オリオンと名乗った少年は、訊いてもいないことをぺらぺらと話した。見たところ十歳くらいだけど、それにしては話し方がずいぶん大人びている。
オリオン……変わった名前。
それに、怪しくないと言われても、彼の格好は思いっきり怪しく思えるんだけど……。
エスニック風というか、あるいは童話に出てくる妖精みたい。ひらひらと揺れる長い布を肩に巻いて、胸や腕には金色の装飾品をつけている。何よりも頭の両側に伸びている二本の角のようなものが目を引くけど……それは一体何?
でも、一番びっくりしたのは、少年の体が空中に浮いていること。
私はまだ夢を見ているのか、それともこの子は本当に人間ではない何か、妖精とかなんだろうか。
でも、不思議なことに少しも気味が悪いとは思わなかった。ころころと変わる表情が無邪気で可愛いせいもあるけど、彼を見ていると何故か安心できる。
オリオン、どうして私の部屋にいるの? ……そう尋ねようとした私は、室内を見回しておかしなことに気がついた。
ワンルームマンションの造りで、シンプルだけど若い女の子の部屋らしい明るい色のカーテンやインテリアでまとめられている。だけど、私にはまるで見覚えがない部屋。
そういえば、ここはどこ……?
ううん、それだけじゃなくて———
「私は……誰……?」
自分の名前さえ思い出せない。でも、どうして?
何がなんだかわからない……。 パニックになりかけた私を、オリオンが心配そうに見つめている。
『混乱するのも無理ないよ……。キミ、記憶がないんだよね? それに関してはボクに責任があるんだ。とりあえず、最初から説明するから落ち着いて聞いてくれる?』
どうすることもできずに、私は頷いた。本当ならもっと動揺してもおかしくない状況だけど、オリオンのことは信じられると、それだけは何故か確信できたから。
オリオンは居ずまいを正すと、神妙な顔つきで話し始めた。
『ボクは、とある別世界から来た精霊なんだ。ちょっとした用があって人類の世界に向かってるところだったんだけど、その途中でキミの精神体と衝突してね。ボクにもよくわからないんだけど、何かの加減で、キミの心の中に閉じ込められちゃったみたいなんだ』
「……」
『キミは、その衝撃で意識を失ったみたいだね。で、その……言いづらいんだけどさ……、実はそのとき、ついでにキミの記憶も飛んじゃったみたいなんだよ。いやーまいったね〜!』
「……」
『ゴメン、ここどんどんツッコんで! 今、キミの常識にないことをいっぱい言ったはずだから。お願いスルーしないで!』
オリオンが必死に訴える。
その様子がおかしかったからか、あまりに現実離れした話だからか、どこから言及すればいいのかわからなくて、私は呆然としていた。
精神体が精霊と衝突して記憶が飛んだ……?
「意味のわからないことが多すぎて……」
『いやーそうだよね。ホントおっしゃるとおり! アハハ……』
照れたように笑ってから、オリオンはいきなり真顔に戻った。
『ボクの不注意で、ホントにゴメン。キミの記憶を戻すためならなんでも協力するよ。……っていうか、そうしないとたぶんボク、キミの中から出られないんだよね』
「出られない……?」
『うん……はっきりとはわかんないんだけど……、たぶんボクは、キミの消えてしまった記憶の部分、つまり心の中に閉じ込められてるんだと思う。ボクがキミの精神に入り込んだぶん、キミの記憶が押し出されたってイメージしてもらえばいいかな? だから、キミの記憶が戻れば今度はボクのほうが押し出されると思うんだよね。……今はそれ以外、この状況を打開する方法が思いつかないんだ』
こんなにも荒唐無稽な話なのに、私は自分でも驚くくらい素直に納得しかけていた。
精霊……だから、オリオンはこんな風変わりな格好をしていて、私の目の前に浮かんでいたんだ。
オリオンの言っていることが本当だと思えるのは、彼が私の精神に入り込んでいるからなのかもしれない。最初に見たときから安心感を覚えたのも、きっと同じ理由なんだろう。
つまり、私とオリオンは今、一心同体ということ——
『記憶喪失にさせちゃったことはホントに申し訳ないと思ってる。だから、一緒にキミの記憶を元に戻そう』
心から申し訳なさそうなオリオンが気の毒にも思えて、彼を責める気にはなれなかった。
それに、今の私には記憶を取り戻すことが何よりも重要で、そのためにはきっとオリオンの助けが不可欠だから。
「わかりました……」
『よかったあ……! ありがとう、わかってくれて。……うん。こう言うのもなんだけど、閉じ込められたのがキミみたいなやさしくて理解のある人でよかったな』
オリオンはパッと明るい笑顔になった。
『えっと……とにかくそういうことで、記憶を取り戻すためにボクにできることならなんでもするよ』
でもそこまで言うと、オリオンは少し気まずそうな顔になる。
『……って言いたいんだけど、実はいろいろと制約があってね、ボクは人類に干渉できないんだ……。キミに触れることもできないし、キミがボクに触れることもできない。……そもそもキミ以外の人間にはボクの姿はまったく見えないし、声だって聞こえない。だから、聞き込みすることもキミの代わりに働くこともできない。……さらに言えば、キミから十メートル以上離れることもできない……』
できないこと、結構多いんだ……。
期待外れな告白にガッカリした私は、思わず溜め息をついてしまう。
『今、心の中で「できないこと結構多いんだ」って思ったね……?』
「え、どうしてわかったの……」
『キミの心の声は口に出さなくてもボクには聞こえるんだ。……キミの思ったとおりだよ。なんでもしたいのは本当だけど、現実的にはボクにできることはあまりないんだ……』
自分でそう言ってオリオンは落ち込んでしまった。
オリオンを傷つけちゃったみたい。
「でも、私一人じゃ何もわからないし、オリオンにいろいろ教えてもらえたり、相談に乗ってもらえると心強いな」
『任せて! ボクもそう言ってもらえると嬉しいよ。へへっ、これから一緒に頑張ろうね!』
立ち直りの早い精霊は、にっこり笑って両手を広げた。
『……それでね、ボク、キミが寝てる間に家の中を見て回ったんだよ。キミん家、ワンルームマンションみたいだね。日当たりよし、収納多し、風呂トイレ別、室内洗濯機置き場あり、築年数もわりと浅め。モニター付きインターホン完備、開錠ボタンが付いてるとこを見るとオートロックのマンションなのかな。セキュリティも万全ってわけだね』
すらすらと説明してから、腕を組んでやや困った顔になる。
『キミって見たところ高校生か大学生くらいだと思うんだけど……、一人暮らしみたいなんだよね。単に一人暮らししてるだけなのか、天涯孤独の身の上なのかはわからないけど……。ねえ、キミ自身はこの部屋を見てみてどう? 何か思い出さない?』
そう訊かれて、もう一度部屋を見回してみるけど私にはやっぱり見覚えがない。知らない人の部屋にでもいるみたい。
「何も思い出せない……」
オリオンは私を気遣うような目で頷いた。
『そっか……まあ、そう都合よくはいかないよね。一人でパジャマ着て寝てたんだし、キミの部屋だってことはほぼ確実だと思うんだけどね。とりあえず、キミも部屋の中を見てみてよ』
オリオンがデスクの方へ移動したので、私も立ち上がった。
『引き出しの中とか見てみようよ。ボク、この世界の物には触れられないからそのあたりはノーチェックなんだよね。ボクが見てわかったのは、キミが一人暮らしだってことと、今が八月らしいってことくらいかな。……ほら、カレンダーが八月になってるでしょ。そのわりには快適な温度だけど』
オリオンの言うとおり、壁にかかったカレンダーは八月だった。私はオリオンの言葉に従って部屋の中の探索を始めた。
引き出しの中、クローゼット、本棚……、特に私という人間がわかるような物もアルバムらしき物もない。写真でもあれば有力な手がかりになりそうなのに。
本棚には難しそうな本が並んでいる。【基礎心理学】【臨床心理の現在】……私は心理学の勉強をしていたんだろうか。
それから、鞄の中を見てみると手帳があった。八月の予定にはバイトがたくさん入っている。私はどこかでアルバイトをしていたらしい。
手帳の中に学生証が挟んであった。そこには、私のものらしき名前と、心理学科の一年生であることが書かれている。それに、大学名とその住所も。
茗荷大学、か……。
『そっか、キミは大学生なんだね。……ん? でも待てよ。今は八月なんだよね。それだと、大学は夏休みじゃない?』
「精霊なのに、大学の夏休み期間まで知ってるんだね」
『ふふん。ボクこう見えても人類の常識には結構詳しいんだ』
オリオンが自慢げに胸を張る。確かにいろいろと知っているようだし、私にとっても心強い。
『でも、これで今月中は記憶探しに専念できるよ。大学が始まったら、望む望まないにかかわらず、いろいろな思惑や欲望を持った人と会うことになるよね。たくさんの人に会えば会うほど記憶を取り戻す可能性は高まるけど、そのぶん、騙されたり陥れられたりする危険も増えるからね』
騙されたり、陥れられる危険……?
「そんなに警戒しなくても……」
オリオンは首を横に振る。
『そんなことないよ。人類は凶暴で残酷な生き物だからね。相談する相手だけは十分気をつけたほうがいい。よほど信頼できる人以外には、記憶喪失なんて言わないほうがいいよ。ありもしない記憶を植え付けられるかもしれないからね』
オリオンはキリリとした顔で忠告する。
『たとえば、「オレはオマエに百万円貸してるんだからちゃんと返せよな」とか……そういうことを言われても、本当かどうか判断できないでしょ?』
言われてみれば、記憶のない私にはそれが嘘か本当かわからない。オリオンはさらに例を挙げて説明する。
『最低なダメ男を彼氏だって紹介されて、本物の彼氏を奪われるかもしれないし。無職だって言われて信じてるうちに仕事をクビになったりとか、はたまた縁もゆかりもないヤツが親友を名乗ってマルチ商法に誘い込んできたり。最終的には落ちるところまで落ちて、気がつけば外国行きの船で輸出されてるかもしれない! ……ね? そんなことになったら困るでしょ?』
「……う、うん」
外国に売り飛ばされるというところまでは考えすぎじゃないかなと思ったけれど、オリオンの妙な気迫に圧されて、私はそう返事をすることしかできなかった。
本当に変わった精霊……といっても他の精霊を知っているわけじゃないけど。彼には彼なりの持論があるようだし、何よりも私を心配してくれていることは確かだ。
『ボクも精一杯協力するよ。頑張っていこ! えっと……、あ、携帯! 携帯発見!』
鞄の底のほうに携帯電話を見つけた。きっと私のものだろう。メールや通話の履歴を調べれば、何か思い出せるかもしれない。
『今日は八月一日みたいだね。ほら、ディスプレイに表示されてる。やったね! 夏休みまるまる一ヶ月余裕がある! それじゃあ、アドレス帳を見てみようよ。それから、メールの履歴で仲のよさそうな人を探して……』
携帯電話をチェックする私の横で、オリオンがあれこれと口を挟む。
『えーっとアドレス帳にあるのはー……イッキ、ケント、サワ、シン、父、トーマ、ミネ、リカ、ワカ……、——って、多いっつの! しかも満遍なくいろんな人とメールやり取りしてるし!』
名前を読み上げている途中で、オリオンが早々に音をあげた。
『ああもう……、いっそ相関図とか壁に貼っといてくれたら助かるのに! あとは各人物の好感度とか略歴とか趣味とか特技とかキメ台詞とか!』
「そんな……無茶だよ」
『……うん、だよね。それに、今時の子なら普通このくらいメールするよね。キミが友達のいないタイプで、アドレスに一人しか入ってないとかだったら楽だったんだけどなぁ。この中から、相談できそうな人を選ぶのって、結構大変かも』
オリオンと同様に私も少し途方に暮れながら、履歴の中で唯一関係がはっきりしていそうな名前を指さした。
「この『父』っていうのは? 私のお父さん……家族じゃないかな」
『家族ならキミのことをよく知ってるはずだし、今の状況に対して親身になってくれるのは間違いないよね』
私が考えていたのと同じことをオリオンが口にする。でも、すぐにその表情が悩ましいものに変わった。
『やっぱりちょっと待って! 家族に連絡するのは今は控えたほうがいいかもしれない』
「……どうして?」
『キミのご家族が妙な心配して病院連れてって、そのまま病院に拘束されることとかになったら困るからだよ。普通はそれでいいんだろうけど、キミの場合はそれじゃ駄目なんだ』
「病院に行ったら駄目なの……?」
その意味が理解できない私に、オリオンは丁寧に説明してくれた。
『キミの記憶は、脳や精神のトラブルで失くなったわけじゃないよね。ボクっていう存在によって押し出されてしまったからなんだ。だから病院や家で保護されてもキミの記憶が戻るわけじゃないし、むしろ、刺激がなければ悪化する。病室で誰とも会わずにボーっと過ごしてたら、いずれひどいことになるよ。それこそ水の飲み方とか呼吸の仕方とかすら忘れてくかもしれない……』
呼吸の仕方すら忘れるって……。オリオンの話があまりに恐ろしくて、私は何も言えなくなる。これまでのオリオンの様子から考えて、まさかそんなに危険な状況だなんて思ってもみなかったから。
私の気持ちを察したのか、オリオンは困ったように眉を寄せた。
『……ゴメン。不安にさせる話ばっかりしちゃったね。でも、ボクが絶対にそんなことにはさせないから。必ずキミの記憶を取り戻すから』
オリオンが力強くそう言ってくれたおかげで、気持ちは少しだけ楽になった。
そう、不安がっている場合じゃない。一刻も早く記憶を取り戻さなきゃ。
『そのためにも、積極的に情報収集していかないとね。キミを知っている人たちと会って、もともとの自分がどういう人物だったか探るんだ。そうやって情報を増やして記憶の外堀を埋めていけば、きっとそれがトリガーになって、キミの記憶は戻っていくはずだ』
「うん、わかった」
『……で、このままここで閉じこもっててもどうしようもないから、何か行動起こしたいんだけど……これからキミの大学に行ってみない?』
「大学に……?」
そのとき、私の頭の片隅で何かが見えた気がした。よくわからない漠然としたビジョンなのに、何故か恐ろしいと感じる。
『キミが多くの時間を過ごしてきた場所なわけだから、何かわかることあるかもしれないし……って、どうしたの?』
目眩を覚えて額に手を当てた私に、オリオンが心配そうに尋ねた。
急激に不安感が襲ってくる。
大学……八月一日……、これは一体なんだろう……?
何か思い出せそうなのに、思い出せない。……思い出してはいけないような気さえする。とても嫌な感覚が、喉元までせり上がってくるようだった。
『もしかして何か思い出した!? ……いや、そんなわけないか。キミが断片的にせよ何か思い出したら、ボクにもわかるはずなんだ。……ねえ、どうしたの? 大丈夫?』
「……少し、目眩がしただけ。……平気だよ」
『記憶を失ったショックで体調もおかしくなってるのかもしれない。今日は外出しないで家にいたほうがいいね。情報集めは明日からにしよう』
横になったほうがいいとオリオンに言われて、私はベッドに寝て目を閉じた。
しばらくそうしていると、気分は少しずつ落ち着いてきた。本当に、さっきの感覚はなんだったんだろう。
『ごめんね、ボクのせいで……。早くキミを元に戻してあげたいよ。けど、ホントにどうしてボクはキミに引き寄せられちゃったんだろうな。世界を移動した拍子に、別の世界の存在と同化しちゃうなんて今までなかったのにさ……』
この状況はオリオンにとっても予想外ということなんだろう。
記憶喪失、精霊との同化……私は今、大変なことになっている。そう思うものの、オリオンの明るい性格のおかげであまり深刻な実感はなかったけれど……。
私はどんな人間で、何をしていたんだろう。どんな人と友達だったんだろう。……好きな人はいたのかな。でも、もし恋人がいたとしても……私はその人のことさえ何も思い出せない……。
私の知らない私に感じるのは、期待と、それ以上の不安。記憶は取り戻したいけれど、思い出すことは怖くもあった。
過去は未来を創り出す。それは私自身の運命そのもの。
ある夏の朝、突然に、私の失くした記憶を巡る旅は始まった————
(本文p12〜p27より抜粋)